オアフ島内の基地を一巡りするツアーで、その途中に太平洋戦争降伏文書調印式の場となった戦艦ミズーリことマイティ・モーの見学も含まれる。
なお、ツアー主催会社「The Tomlinson Corporation」がサイトを開いているので、気になる方はこちらをどうぞ☆〃(ちなみに、このページの背景はツアーの売店に置いてあった名刺のロゴとエンブレム)
朝、スナップ&資料撮影用カメラ+バードウォッチング用の双眼鏡を装備の上、待ち合わせ時間に併せてホテルロビーに降りると、すぐ、迎えの車が来る。運転手を含めて11人か12人は乗れそうな車で、後部座席が3シートあった。運転席にいるのは、一見した感じでは30がらみの日系人(後で40台とわかる)。車は、まず我々を乗せてからもう一つのホテルによって、おじいさん一人、小学生の男の子一人と、おばさん数人の小団体を乗せた。(この老人と子供が後に話のネタを提供してくれようとは、この時は予想だにしていなかった)
車は市街を抜けて走ってゆく。と、とある公園らしきエリアに戦車が展示してあった。小団体の小学生が目を輝かせ「戦車だ!!」と叫ぶ。S氏が「戦車が好きなの?」と聞くと、「うん、戦車が一番好き!」と言う。……この少年の将来が目に浮かぶような会話であった(笑) 後日わかったが、ここは陸軍博物館(6/18行程分につき現在工事中)だった。 振り出しのヒッカム空軍基地へ向かう途上、ガイドのS氏から四方山がてら自己紹介がある。彼は、以前厚木にいたことがある人で退役時に少尉だったそうだ。日本に興味を持って、色々勉強したと言っていた。その途上、S氏曰く。「みなさんのなかで、飛行機や船舶に詳しい方はいらっしゃいますか?」 後席の団体さんは黙っている。我々夫婦が「いや〜、好きなんですが知識がなくって、さっぱり識別できません」と言うと、妙に安心した様子で「そうですか。実は今、RIMPACの最中で、飛行機も船も出払っていて、大した物は残っていないんですよ」と言った。むう、確かにマニアックに知識を磨いてる人だったらがっくりする状況下もしれないな。けど自分はどうせわからんから、雰囲気が味わえればいいや、と思う。
●ヒッカム空軍基地●
ヒッカムで、付き添いの現役軍人を乗せる前にS氏から厳重な注意がある。曰く「絶対に私の指示を守って下さい。特にカメラやビデオは指定の場所でしか撮れませんので、ご注意下さい。これから乗ってくるのは現役の軍人です。言うなればみなさんの監視役で、不用意にカメラを使えばスパイ行為と見なされて最悪の場合は拘留・強制送還もあり得ます」。 おお、コワ、と思っているうちに基地の正門へ。念のため、双眼鏡も同じですか、と聞いたがやはりダメな時はダメとのことだった。
S氏は門衛に挨拶して門横の小さな駐車場に向かう。そこで、車を降りて事務所のような建物へ。戻ってくると、開口一番「今日は運がいいです。今日同行する人は奥さんが日本人で、親日派ですから」。(なんでも、人によってはキッツイ人もいるらしい。)そして、やってきた軍人さんは、白人でなかなかのナイスガイ。なにやら「フライデー、フライデー♪」と歌うように口ずさんでいる。
監視員を乗せると、車はいよいよ基地の中へ。 宿舎群の横を通るとき、「あれがオニズカ・ビレッジです」と示してくれる。宿舎エリアへの入り口には確かに「Onizuka」の名が見える。「みなさんは、チャレンジャーの事故を覚えてらっしゃいますか? オニヅカさんはあの事故でなくなりました。悲惨な悲しい事故でした。我々は、そうやって亡くなった方を決して忘れません。だから、こうして通りや広場に名前を付けるのです」とは、S氏の談。
それから、数機の飛行機が展示されている所にゆく。 WW2時代の飛行機を主に展示しているスペースで、私は………まだ、見たことのない鳥が芝生にいるのを発見してやおら双眼鏡を構えたのだった。(この後、ルーチンな手順として図鑑との照合作業がついてくる)
鳥を見飽きると、監視役氏と戦闘機の前で記念写真を撮らせてもらう。ふと、その機体を見あげると、エア・インテークにぎっしりと藁が詰まっている。何の鳥の巣だろう、と首を傾げつつ、展示された戦闘機を見て歩く。S氏は、各々の飛行機の簡単な説明もしてくれた。そして………どの飛行機のエア・インテークも、鳥の巣になっていた。もちろん、鳥はレシプロ機だろうがジェット機だろうが、分け隔て無く藁を詰めていた(^-^;)
それから、道路を挟んで後ろの展示スペースへ。そこでは、撮影の方向について注意があった。滑走路方向はとっちゃいけないんだそうだ。もちろん双眼鏡もペケである。ここで見たヘリには、 鼻面に鮫の絵 が描いてあった。S氏、曰く「なぜ、アメリカの戦闘機には鮫の絵が描いてあると思いますか? 日本は海に囲まれていますね。だから、戦争になったとき、アメリカではたくさんの漁師が召集されるだろうと思いました。漁師にとって怖いのは鮫です。だから、鮫を描いたのです」。そっかぁ〜。知らなかった。と、S氏が言葉を続けて曰く「最近では由来を知らずに日本の戦闘機に描いてあったりしますけど」。あらら〜(^−^;)ゞってな感じだった。
見学&撮影が済むと、再び車に乗って基地の中をぐるっと回る。その途中、広い荒れ地でヘリがロープを垂らして迷彩服を着た人々が降下訓練(でいいのかな?)を行っていた。S氏が我々の注意を促して「あれは、もしかしたらシールかもしれません。シールはアメリカの最精鋭で、特殊任務をこなす部隊です」と言った。ヘリからロープを伝い降りる人々を横目に、我々は先へと進んでいった。
さらに先の戦闘機の駐機スペースには、なぜかアメリカ製の飛行機に混じってミグ19が。これもS氏の案内で気がつく。 なぜソ連の戦闘機が? それにしてもボロいなぁ……。外板には艶がなくってべこべこしてるし、なんか妙な格好だし……。と思うウチに車は埠頭につく。
埠頭からは湾が見渡せて、向こうの方から変な格好の船が来るのが見える。あららぁ? あれってもしかして? と思っていたら、案の定潜水艦が水上航走する姿だった。潜水艦の種類はなんだかわたしにはサッパリだった。後日みたボウフィンよりはでかかったのは確かだけど。その背中には、人の影も見える。そのうちの一人はウェットスーツを着てボンベを背負っていた。S氏、それを見て「あれもシールかもしれません。いやぁ、運がいいなぁ」。もちろん、我が夫君がトリガーハッピーよろしく写真を撮りまくったのは言うまでもない。私はと言うと、コニカビッグミニでは、どうやったって望遠レンズを装着できないので、おとなしく双眼鏡で見物するにとどめたのだった。
潜水艦が通り過ぎてしまうと、私の目は埠頭に群れる鳩に向かった。ワイキキでは、ドバトはほんの少ししか見かけず、代わりに大量のゼブラ・ダブ(長嘯鳩/和名:チョウショウバト。体長8インチ)がいて、基地の人々から餌をもらっていた。
次に向かったのは先ほどとは別の飛行機展示エリア。 ここでも、カメラを向ける方向については厳重注意があった。しかし、親日派な為か、あるいはS氏と親しいためか、もしかしたら、すごく手練れなのか、監視役氏は監視っぽい感じではなく、S氏との四方山話が楽しいような風情であった。
ここでも、あらゆる機種がバイオハザード(鳥の巣)にさらされていた。S氏曰く、「これ(イーグルだったかな?)は180億円します。180億円の別荘ですね」。以後、我々夫婦は戦闘機を見ると脳裏をこの言葉がよぎるよになってしまったのだった。(それは、今も続いている。頭上をホーネットが飛ぶと、ああ、あれもいずれは別荘なのかな? とか(笑))
そこから去ろうという間際、上空をカーゴベイ(でよかったっけ?)を開放した輸送機が航過した。それを見たS氏、「見ましたか? カーゴベイをあけていましたね。もしかしたら空挺降下をするかもしれません」。しかし、無情にも飛び去る輸送機………と思いきや、輸送機が敷地を区切る木立を飛びすぎたあたりで、S氏が「あ! 落とした!!」と興奮した声で叫んだ。ばらばらと黒い人影が落ちてゆくのが見える。私は「訓練ですか?」と間抜けたことを聞いてしまったが、S氏はまじめな顔で「訓練です」と答えてくれた。夫君からは、すかさず「実戦のわけ無いでしょうが」と、つっこまれた。わかっとるわい。なんとなく去年の入間航空ショーで見損ねた空挺降下を思い出しちゃって、演技って単語がよぎっただけだい。(←どのみち間抜け(笑))S氏は、しきりに「かなり低いなぁ」と感心していた。(何フィート位だって言ってたっけかな。確か3000フィートくらいかなぁ」と言ってた様な気がする)空挺降下を見られて嬉しかったが、なんとなく、入間の仇をヒッカムで討った、という気分ではあった。
最後に降りていった監視の軍人さん、なにやら両手を前で合わせて横にスイングする仕草をしてから去っていった。それを見送ってSさん曰く。「彼、午後はゴルフだそうです」。なるほど、どうりで「フライデー♪ フライデー♪」って歌うわけだ。きっと楽しみなんだろうなぁ。嬉しそうだったもんなぁ。
こうして、我々はヒッカム空軍基地を後にしたのだった。
ここでお詫びである。海軍基地の名前を忘れてしまった。実際の話、海軍見学ではミズーリ以外は見なかったと言っても間違いではない。だから、この項は全部、戦艦ミズーリ見学の話である。
まず最初にヒッカムの正門と同じく、門衛の詰め所にS氏が出かけてゆく。戻ってきたS氏は、我々を門内に案内した。 入ってすぐ、ミズーリが係留された埠頭に続く橋のたもとにトイレがあった。ここで、トイレタイムが取られトイレ前が待合い場所に指定される。見学時間はわずか30分。艦内全部を見るのは難しいだろうと言われる。
それからみなで橋を渡り、埠頭のチケット改札を抜け、横手の売店をしり目に鉄製の階段(ラッタルというほど急ではなく、非常階段的な趣)を上がって、艦上へと赴いた。(ちなみに売店では絵はがきや終戦時の新聞の復刻版が売られていた)
最初に行ったのは、甲板上の艦首部分、主砲の前だった。 そこで、S氏からミズーリの砲の口径(16インチ=約40センチ)、艦の全長(270.4m)等、諸元の説明を受けた。
聞いてびっくりだったのは、ミズーリがつい最近、平成3年度いっぱいまで現役だったということだった。平成3年には湾岸にも出かけてトマホークをぶっぱなしてきたそうな。ここ・パールハーバーで一般公開されたのは、つい昨年、平成11年1月29日とのことだった。なお、艦内には再就役したとき受けた大幅な改装の一環として、エアコンが装備されており、現在も稼働しているとのことであった。エアコン装備以前は、艦内はそりゃもう暑くなったので、その対策のため甲板は板張りなのだと言うことだった。なお、甲板に使われたチーク材は、今ではすっかり値上がりしており、この分量を今集めて、もう一度同じ戦艦を作ろうとしたら、鋼鉄製の船に比べてとてつもなく高くつくとのことだった。この解説タイムで、S氏のが「ミズーリの主砲は16インチ、約40センチですが、全長は戦艦大和より長い270.4mです」と言った、その時だった。ツアーのメンバーの一人、70歳にはなろうかという老人が「大和より大きいのか……」という、大変印象的な呻くような呟きを漏らした。するとすかさず夫君が「いや、しかし全幅は大和の方が大きいですよね」とフォローする。するとすかさずS氏があくまでもにこやかに「ええ、アメリカの艦はパナマを通らなくてはなりませんから」。夫君、楽しげに「確か33mでしたよね? けど、総排水量では大和の方が圧倒的に大きいですし」。S氏「それはそうですね」。おおっ? ここに日米ミリタリィヲタク対決勃発か?! と思ったが、それ以上のラリーは発生せず、解散して所定の集合時間まで見学時間となる旨が告げられる。解散直後、S氏に主砲の前で記念写真のシャッターを押してもらった。
なお、戦艦ミズーリ博物館のサイトは、こちらをどうぞ。
また、ツアー参加時に配布された「デッキログ」をごらんになりたい方はデータ諸元を掲載した表紙と、一面に俯瞰図と解説を載せた裏面を200kb前後のhtm画像(200dpi)に取り込んであるのでどうぞ。かろうじて解説文も読めるので、詳細なデータを知りたい方には良いと思う。
こうして始まったミズーリ見学であるが、急ぎ足で前甲板からの写真を撮り、艦橋への上がり口へと向かうと、くだんの小学生が一人でうろついていた。「お母さんたち、先に行っちゃったんだ。一緒にいってもいい?」と聞くので、同行することにした。ここからさき、集合場所まで、彼は我々と行動を共にし、何かと質問を放ち、道中をにぎやかな物にしてくれたのだった。
それから我々3人は、夫君の簡潔なる解説を聞きながら、急なラッタルを這い上がるように登って、艦内巡りへと出発した。艦内はどこを取っても、かなり窮屈な印象だった。(が、これはまだ全然良い方で、後日訪れた潜水艦ボウフィンの艦内は、こんな物ではなく、そりゃもう気が狂うほど狭かった。)我々は、艦橋に上がって眺めを楽しみ、監視員の椅子から艦長の椅子に至るまで目に付いた椅子ははじから座り、操舵室らしき部屋を覗き、続いて船内に降りてあちこち見聞して歩き、食堂に行き当たってさらにその奥を目指し………ついに、小学生命名するところの「秘境の売店」を発見したのだった。(ああ、写真取って置くんだった!!>秘境売店 それと、何故か写真の中に降伏文書の展示室のモノがない。夫君としては、そういう写真は欲しくなかったようだ。私は艦内の写真は夫君に任せていたので当然撮っていない。ちょっとだけ悔しい(笑))
なお、この行程、かなりの強行軍で、最後に近づくほど時間を気にしてハイテンポな物になっていった。しかも、オアフ島の一般的な午前のお天気のご多分に漏れず、本日も晴天なり。その炎天下をラッタルを登ったり降りたりするのだからたまらない。あっという間に水分は汗になり汗は爽やかな(=湿度の低い)大気へと逃げて行く。そして、ソレを見越したかのように随所に置かれていたのが、この、自販機だった。自由行動にはいる前にS氏が、自販機に水がありますが、寄付として水代が必要です、と言っていたが、我々もほんの2〜3$ではあるが、寄付をしてきたのだった。再就航以前、エアコンが入る前は、マジ熱かったんだろうなぁ。
さて、話を戻して秘匿名称「秘境の売店」であるが、ここには、さすが秘境だけあって誰もいなかった。ただ一人、店員のねぇちゃんがぶっす〜っとした顔で、商品の整理に精を出しているだけだった。彼女はちらりとこちらを見るが、表情一つ変えない。よほど客足が悪いようだったが、こんな立地では無理もないといえた。
我々は、Tシャツや様々なグッズを見て歩いたが、カウンターまで来ると夫君の足が止まった。止まったどころではない、根が生えた。ジッポのライターである。困ったことに彼はジッポに目がない。そして、夫君はいそいそとライターを選び始め、何種類もある中から三種類を選び出した。三種「も」である。しかし、初日早々に本屋で野鳥のフィールドガイドを購入し、隙あらば増強をもくろんでいる私としては、戦略上、夫君の希望をあまり無下にはしたくない。結局ライターは三つとも買うことになった。これだからコレクターは。いやまったく、困った物だ。もっとも私も人のことは全然言えないんだが。「ふん、どうせあんたも買わないんでしょ」と言いたげな態度だったねぇちゃんは、ここにきて急変し、さも嬉しそうにニコニコしながらジッポをつつんでくれた。夫君が、会計の手を止めさせて、これも、と終戦の日(この場合はミズーリでの調印の日)の新聞を手にとって追加すると、ニコニコはさらに大きくなった。
我々探検隊(笑)は、売店を出るとさらなる探索を続けた。その結果、ほとんどのエリアを制覇することはできたが、残念ながら沖縄戦で特攻機が突っ込んだ後のへこみとやらはどこなのかわからなかった。そして、最後に出口を目指して急いでいるとき、資料の展示室に行き当たった。なんとも悔しい話だが、ゆっくり見ている時間がない。しかたないので、駆け足で一回り見て、待合い場所へと戻った。……戻ってみたら、我々が一番乗りだった。やがて、団体さんたちが戻ってきて、小学生の親御さんからはひとしきりお礼を言われたが、「ご迷惑だったでしょう」と謝られた夫君が「いやぁ、なに、自分もこんな子どもでしたから」と応えているのは彼の日頃は見せない新たな側面を見た思いがして印象的であった。
こうしてミズーリを後にした我々は、さらなる探訪の旅路へと向かったのだった。
●士官食堂●
将官クラス用だというその食堂では、この日はビュッフェ形式での食事を出していた。S氏は、ついている、という。ここの食事は美味いが、とりわけビュッフェはおすすめだそうだ。量も種類もたっぷりとした料理から好きな物を取って席へと向かう。よく手入れされた緑したたる中庭に向かって一切の仕切なしに開かれた空間は、ハワイの気候ならではの構造だろう。気持ちの良い風が抜けて行き、強い日差しは屋根が遮ってくれる快適な空間だった。席につくと給仕がやってきて、よく冷えたアイスティーをサーブしてくれた。
食事は、文句なしに美味かった。しかし、量を少々欲張りすぎた。残すのは悪いし、もったいない……と粘って食べていたら、私以外はみな、食べ終わってしまった。おかげで、子供の頃の給食の事を思い出してしまった。それで斜め前に座った小学生と、自分は昔給食が苦手で、いつも食べ終わるまで残されてそれがイヤだった、なんて話をしてしまった。
食事中に印象的だったのは、野生のカーディナル(Red-Crested Cardinal)がひょこひょこひらひらと食堂に入ってきて、人のいない椅子の背やテーブルの下を餌を求めて跳ね回っていたことだった。ハワイに来て印象深いの事の一つは、驚くほど鳥が人を恐れていない事だ。ハワイの都市部及び人里で見られる鳥のほとんどが、帰化鳥であることを考えると、あるいは当然と見るべきなのかもしれないが。彼らの祖先はみな、人のて手を介してこの地へと「入植」したのだから。そして、その後も、多かれ少なかれ人の恩恵の元、人と関わりながら生きてきたのだから。
食事が終わると、車で移動である。S氏が運転しながら、「いかがでしたか? ここに来た方はみなさん、美味しいとおっしゃいます。他で食べるよりもずっといいですよ」とおっしゃる。確かにそう言うだけのことはある食事であった。そうか、だからツアー料金高いのか?! とか思ったけど、それはあえて言わなかった。
●倉庫な売店、ツアーな売店●
最後は、基地の売店でのショッピングだった。いや、もしかしたら、食事の方が最後だったのかもしれないが、既に覚えていない。仕方ないので、こういう順番で書いたが、内容が変わるわけではないのでご容赦願いたい。
最初は、ツアー客用の売店へと向かう予定であったが、もう一つ大きな団体が来ていて、そちらとかちあわないように別の売店によってから本来のコースに戻ることになった。この時、「昨日まではジッポの珍しいライターが入っていたのですが、団体の後だとまだ残っているかどうか……」とコレクター心を煽るような事をS氏が言うので、もし、ライターが残っていたら間違いなく買うハメになるな、と覚悟を決める。
売店へと着く前に、S氏は注意事項として「これからゆく売店には、ナイフやその他日本に持ち込めない物もあります。お願いですから、それらは買わないで下さい。必ずひっかかります。ひっかかると、みなさん、ガイドが連れていった売店で買ったとおっしゃいます。すると全部、私のせいになってしまいます。私が買うなと言って買った物でも私のせいです(苦笑) ですから、くれぐれもナイフは買わないで下さい」と言われる。そりゃお気の毒に。私だって税関やレントゲン検査は怖いのでナイフは欲しいけど買わないことにする。いやほんと、欲しかったですけどね(苦笑)
そして、到着した売店は、なるほど普通ツアーで行くような小綺麗な印象はかけらもなかった。実質的に倉庫そのままといってもいい位だ。倉庫丸一個分の中に、ところせましと放出品や記念グッズ、冗談グッズ等々がひしめいている。こりゃ幾ら金があっても足りないな、と思い、よっぽどの物を見つけない限り1品の上限を5$程度でお土産をさがそうと思った。
主だった商品をざっと上げてみよう。Tシャツ、キャップ、布ワッペン、紙ワッペン、軍服各種、装備品各種(擲弾筒?の発射筒まであったのは驚いた。誰が何のために買うんだ?!)、ナイフ各種(中には柄に美しい細工を施した物もあった)、きっついスローガンを印刷したステッカー多数、徽章や部隊のマーク等々をかたどったピンズ多数……。とまあ、豊富なことこの上ない。夫君は妖しげなワッペン(放射線注意マーク)のついた冬季上着を欲しがったが、100$ほどもする値段を見て即座に却下した。
結局、ここでは私は空軍のコマンド・パイロットとエンジニア・パイロットの徽章を1個づつ買い、夫君は、3枚10$の怪しさ炸裂なステッカー(クリントンなんか辞めさせちまえ、みたいなことが書いてあって、クリントンの頭文字のCがソ連の鎌と槌のマークになっているのとか……)と、またまたジッポを購入したのだった。
ここで、私は思いがけない事を団体のおばさんから聞いた。同行していたあのおじいさん、なんと回天の生き残りだったそうだ。訓練まではやったけど、出撃前に敗戦になったんだそうな。そうか、もしそのとき死んでいたら、この小学生もいなかったんだな。おい、坊主、よかったな。なんて思ったりした。そして、かつて召集され、人間魚雷に乗った一人として、今、かつての敵地を踏んだ思いはいかばかりであろうか、と勝手に遠い目になってみたりしたのだった。
続いて、本来行くはずだった売店へと向かう。思ったよりも狭い店内で、アメリカ人とおぼしい人々がまだ何人かいて店内を見て歩いていた。そして、問題のジッポ……ネイヴィ・シールズの放出品……は、まだかろうじて3個、残っていたのだった。もちろん、夫君が飛びつくようにしてそれを買ったのは言うまでもない。
この売店内には小さいが展示スペースもあって、ハワイの絵画&彫刻の展示即売もやっていた。そして何よりびっくりだったのは、店内に据えられた機銃付きジープだった。いくら雰囲気出しったって、この狭い店内に良く置くよなぁ、と思った。どうやらそれは記念写真用らしく、周囲の壁にはポライドで撮った記念写真が隙間もないほどびっちりと張り付けられている。
ジープの向かい側の壁には、第二次世界大戦の戦闘機らしき機体と、その前に集う人々の写真、そして、妙にS氏に似ている人物がWW2当時のものとおぼしき装備で零戦みたいな戦闘機の前に立っている写真とがあった。これは、パールハーバーの50周年だったかの記念祭典の時、日米のかつては敵同士として戦ったパイロット達がパールハーバーに集ったときの写真と、S氏が記念の映画にパイロット役で出演したときの記念写真なのだった。我々は、その写真の飾られた壁をカメラに納め、自分たちもジープに乗って記念写真を撮ったのだった。
また、この売店で、ツアー参加記念のマグカップも支給された。裏の戦闘機の線画はどうでもいいとして(笑)、表側には、チキ神のような偶像が左手に槍を右手に御輿の先頭の人が持つような御印を持った絵が盾型の中に入っていて、その下に「154th WING」と書いた紋章がある。これは第154師団とか連隊とか、そういう意味なんだろうけれど、疎い私にはわからなかった。
この後、帰路、S氏と特攻隊の話を交えた興味深い会話があったのだが、これはこれでなんとなく長くなりそうな予感がするので、別項目(現在工事中)をたてることにする。
最後に、我々は、来たときと逆の順番でホテルに送り届けられたのだった。我々夫婦がホテルに着いたとき、ホテルの前に軍服の集団がいた。S氏が「空軍の連中だ」と言っていた。我々は、S氏に別れを告げたあと、先に降りた小学生といつかコミケで出会う日が来るかもね、などと話しながら部屋へと帰ったのだった。
ツアー全体を通しての印象は、思ったほど基地内が見られずものたりなかったなぁ、と言う感じだった。しかしながら、人との出会いには恵まれたと思う。まず、ガイドのS氏。彼は非常に興味深い人物で、会話も大変面白かった。そして、元気な戦車好きの小学生。彼のおかげで、私は夫君の知られざる一面を目にすることができた。さらに、回天の老人。彼自身は多くを語ろうとしなかったが、彼がそこにただいるだけで、十分に大きな意味のある存在であった。この辺についてはいずれ記憶の薄れない内に、S氏との会話の項で詳しくふれてみたいと思っている。
この項、以上。